子玉(成得臣)~重耳を気にしすぎた楚の猛将~

2023-08-23

子玉(成得臣)とは

春秋時代、楚の令尹(宰相のような官職)。
闘穀於菟(子文)の後任として令尹となり、城濮の戦いで楚の主将として晋と戦う。
楚の十四代君主若敖(熊儀)の子である闘伯比の子。闘穀於菟(子文)の弟。子良の兄。
子に成大心(孫伯)、成嘉(子孔)。
晋の文公(重耳)が楚を訪れた際、楚の成王との問答が無礼だという理由で文公を殺そうと願うも、却下される。
その後、城濮の戦いで文公率いる晋軍に大敗し、成王から死を賜ることになった。
子玉の死を聞いた晋の文公はたいへん喜んだという。

軍の運用はそつがなかったが、政治力は不明

事績として残っているものは軍事がらみのものが多い。(確認したのは春秋左氏伝)
政治的な手腕はどうだったのかは定かではない。
賢相といわれた子文が後任に据えたのだから、優れた資質を持っていたのかも知れないが、結果的には覇権を晋に奪われる事態を招いてしまう。その点で言うと、蒍呂臣や蔿賈の懸念が当たっていた。
子文の目が曇ってしまっていたのか、もしくは戦功を挙げた子玉を暴走させないようにするために不本意ながら令尹に抜擢したのか。

城濮の戦いは子玉のプライドを守るため?

若敖氏という楚の公室につらなる家系ゆえ、相当にプライドも高かっただろうと思われる子玉。
子文の後任として令尹になったものの、楚の朝廷では蒍呂臣や蔿賈のように、自分に対して厳しい目を向ける者が多かったかもしれない。
そんな国内の自分へのイメージを払拭させる舞台として、城濮の戦いに勝利するというのはうってつけだったのではないだろうか。
相手は成王に対して無礼な発言をしたとして殺そうと考えていた晋の文公。それまでの小国相手の局地戦ではなく、大国を相手とした会戦に勝利すれば、周りの評価も変わるだろう。だから成王の撤退命令を無視し、宋の包囲を続け、晋軍を追撃してしまったのだろう。
公よりも個を優先してしまったのだから、令尹という国を主導する立場に立つ人物では無かったのかもしれない。

楚の成王は子玉に兵をあまり多く与えなかった?

撤退命令を拒否した子玉に対し、怒った成王であったが、兵だけは与えている。
春秋左氏伝には「わずかな軍勢しか与えなかった」とあるが、どのくらいの兵数だったのだろう。
内訳としては以下のようになっている。
・西広の兵車30輌
・東宮の兵
・若敖氏の六卒(兵車180輌)
李衛公問対によると、楚では兵車1輌につき150人が付くということから、少なくとも31,500人の兵数を分け与えられていたはずである。これに陳、蔡の兵が右軍の付翼として加わっている。
対する晋は三軍。少なくとも37,500人。それに斉と秦の兵も加わる。
兵数としては割と良い勝負になっているのでは無いかと思う。
成王が「わずかな軍勢しか与えなかった」と書かれているのは何故だろう?自分の命令を無視した子玉をむざむざと殺すのは忍びなかったのか。

楚の猛将(?)子玉の戦歴

戦績からは猛将というイメージはあまり無い。
小国との戦では負けていないので、将としての資質はある程度あったと思う。
大国との会戦を経験していないようで、その最初が文公率いる晋だったというのが不幸だったのだろう。

陳への侵攻(BC637秋)

宋の側に付いた陳を咎めるために、楚は子玉を派して陳に侵攻。
焦・夷の地を占領し、頓に城を築いて引き揚げた。
この功績をもって子文は子玉を自分の後任として令尹に任命した。
大夫の蒍呂臣は子文に向かって「子玉を令尹にするなんて、あなたは楚をどうするつもりですか」と問いただした。子文は「これで国を安定させるつもりです。大功を立てたのに高位を貰えないと、その人は国を安定させにくいからです。」と答えた。

鄀の戦い(BC635秋)

秦と晋が鄀を攻めた。楚の闘克(申公子儀)と屈禦寇(息公子辺)はそれぞれ兵を率いて、鄀の首都である商密を防衛。
秦は策略をもって商密を降伏させ、闘克と屈禦寇を捕えて引き揚げた。
出撃していた令尹子玉は秦軍を追撃したが追いつけず、代わりに陳を包囲し、秦の侵攻で避難していた頓の城主を城に帰し、自身も楚に帰還した。

夔の戦い(BC634)

夔の君主が、楚の先祖である祝融といく熊を祀らないので、問い質したところ、夔の君主は「夔の先代の君主が病にかかったので、祝融といく熊に祈りを捧げたが、治らなかった。しかし夔に移動すると治った。そこで楚との関係が切れたと認識している。いまさら祝融といく熊を祀るまでもないだろう。」と答えた。
秋、子玉と子西(闘宜申)は軍を率いて夔を攻め、これを滅ぼした。夔の君主は逮捕され、楚に連れて行かれた。

城濮の戦い(BC632)

宋をめぐる晋との戦い。(城濮の戦いを参照。)
子玉は敗戦の責を問われ、楚の成王から死を賜り、連榖の地で自殺した。

楚 若敖氏系図

春秋左氏伝やらWeb上で見つけた文献等で、楚の若敖氏の系図を作成。
子玉の位置が闘伯比の息子だったりそうじゃなかったりするケースが色々だったので、とりあえず息子で子文の弟という説に従ってみた。
若敖氏は子越(闘椒)が令尹の時に荘王に謀反を起こしたため、壊滅に近い状態になる。
子文の孫の闘克黄だけは荘王から助命され跡を継ぐ。
子越の子の闘賁皇は晋に亡命。晋の景公から苗の地を賜り、以降苗賁皇と名乗る。
後に勃発する晋と楚の戦い(鄢陵の戦い)では、楚から晋に亡命した苗賁皇と、晋から楚に亡命した伯州犂が、それぞれ軍師的な立場として祖国と戦うという、なかなか面白い光景が展開される。